終いにゃ血ぃ見るド*1『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』@渋谷アミューズCQN

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」を観ました!凄かった!噛めば噛むほど肉汁のあふれ出すステーキみたいな映画でした!

なにしろ映画の旨みがしたたっていましたねえ。たとえば台詞なしで主人公ダニエルの石油屋事始を描く映画冒頭の数分間。男がひとり、荒野に眠る鉱脈を探して、穴の中で汗と土埃にまみれ鶴嘴を振るい、マイトを仕掛け、穴から這い出て、岩盤を発破し、また穴に戻って、繰り返す作業の中で事故も起こり…ただ黙々と働く姿の、その一挙手一投足や穴の出入りに付随する暗闇と光のコントラスト、つまり映像そのものがダニエルという男をあまさず説明しながら、且つ眼福であるというこの機能美よ。ちょう気持ちいい。終始こんな具合で、あまり台詞に頼らず映像で物語を綴ります。(このあとネタバレありなのでたたみます。)

そうして言葉で説明しないことによって、意図的に複数の解釈ができるようにもなってるんですよね。ポールとイーライは同一人物か別人か?HWはなぜ家に火を放ったのか?*1ダニエルはなぜHWを連れ戻したのか?*2HWは本当は誰の子供なのか?*3わたしが気付いたのはこれくらいで、他にもあるかもしれません。

また、ガスの噴出事故や取れ戻されたHWがダニエルに殴りかかるシーンなどの劇的な事件をロングショットで撮って人物の表情よりも動きのダイナミズムで見せ、ほぼ唯一ダニエルの内面を描くニセ弟とのやり取りは心の淵を覗き込むようなクローズアップで、まるでニセ弟の存在や彼を殺したことまでがまぼろしでもあったかのような幻惑的な印象を作り出しています。

そうした語り口の効果か、この映画全体が神話や昔話のような手触りでした。ダニエルの造形も、ギリシア神話のゼウスのようで、尊大で嫉妬深く残酷です。そう、この映画の主人公ダニエルは、神との相克を演じながら近代的自我を代表しません。現代の映画としてはとても珍しいキャラクターに思えます。ダニエルは神様を信じない。それは動物が神様を信じないのと同じです。荒野でひとりで生きて、自分の力で土地や人を捕らえてその血を啜ってきたから、神様なんて信じない。信仰なんか馬鹿げたこととしか思えない。それはエゴの肥大した人間が神を超えようとする足掻きというより、そんなものと関わりなく生きている野生動物のありように近い。近代的自我のギラギラ/ウジウジ感がなくて清々しかった!いろんなところで、主人公ダニエルの怪物ぶりが言われているけれど、わたしにはダニエルが怪物、別の言い方をすると「理解できない嫌なもの」には見えなかったんですよね。むしろゴー!ダニエル!ゴー!ですよ。こんなのは少数派なのでしょうか。でもやっぱり、PTAはダニエルを「理解できない嫌なもの」として描く気はないように思えます。HWが取れ戻されたところから彼が大人になって(信仰心の篤い父親からお祈りをしないと殴られていたのをダニエルがやめさせ、この村で最初の油井にその名を取った)メアリーと結婚するまでを一足飛びにすることでダニエルの最も嫌らしいふるまい(貧乏人を搾取して成り上がるさま)を具体的にはほとんど見せなかったもの。PTAはこの映画のことを一種のホラーだと言っているけど…うーん、ジェイソンやフレディやレザーフェイスは怪物だけどヒーローでもあるのと同じようなもの…?(そう考えると今年のアカデミー賞、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」ダニエルVS「ノーカントリー」シガーの対決がジェイソンVSフレディにダブって見えるぜ…)

それはさておき、とにかく、陳腐な言い方だけれどとても豊かな映画です。映像はもちろん上に書いたとおり、音楽もとても印象的で美しいし、堂々とした佇まいが圧巻の大作でありながら、PTAらしい人間描写で笑わせてもくれます。こういう映画を観るとやっぱり映画はいいなと思えるし、また映画を観たくなる。すばらしいご馳走をありがとうPTA!DVDが出たら絶対に買うよ!そして、いろいろな解釈を導く伏線がさりげなく配置されているのでそれを確かめたいし、本当のことを言うとちょっとだけ寝てしまった(寝不足だったんだ…!ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ…!)のと、メガネを忘れてしまって完璧にクリアな視界ではなかったので(最後のふたつで文章の説得力ガタ落ち…)少なくともあと一回は観に行くよ!

▼5/12追記;
id:hiccoughさんが取り上げてくださいました。(下のトラックバック参照です)ありがとうございます。バカヨシキ所長や深町先生と並べてもらってうれしいです。うひー。

正直に言うと「近代的自我」という言葉は正確に理解した上で使っているわけではなくて、あのー、すみません。ただ、神の存在を前提としてそれとの相克、いわゆる「神殺し」をやるのが「近代的自我」なんじゃないかなー、とわたしは考えているのですが、その点ダニエルは、神を罵りながら神に怯えるような「近代的」葛藤を感じさせない点、古典的であることさえ超えてむしろ原始のマン、「神様あ?いるかよそんなのだって見たことねえもん。」的なまさに「見たまんま」な視野の人粗野の人ちゅうか野生の王国?ライオンキング?みたいな。それに、人間嫌いとか隠遁とか父子の対決とかの内省的テーマはわりと古典的なもののような気もするので矛盾しないかな、と思っています。みなさんどうかしら?

あと、「plainview=見たまんま」の正誤問題、実際のところどうなのか気になる。侍功夫さんがエントリ内で書いてらして、それをヨシキさんが「ちがいますよ」と指摘されてて、でもパンフレットには柳下毅一郎さんが「plainview=見たまんま」と書いておられて、で、更に、こないだのTBSストリームのオンエアでも小西克哉さんが同じことを仰ってたのです。小西さんが柳下さんの文章を元ネタにしてる可能性もあるしなあ。うーん。とりあえず近々どっかで英英辞典をめくってみることにします。

*1:ただの奇行だったのか?それともニセ弟が持っていた日記を読み彼の正体に気付いて葬ろうとしたのか?しかし耳が聞こえなくなってから一切筆談をしないし、教育を受けた描写もないので文盲なのかも知れず、日記を読めたかどうか定かでない。

*2:HWの放火がニセ弟を葬るためと理解して連れ戻したのか?ただ「パートナー」がいなくなったから連れ戻したのか?

*3:当たり前に考えれば冒頭で死んだ仲間の子だと思われるが、本当はダニエルの実の子供である可能性もなくはない。