マイケル・ジャクソンのこと

ご多分に漏れず、その人が死んでから思い出したように、ユーチューブでマイケルのPVを見たりしている。死んだ、と聞いてとにかくびっくりしたけど、アイコンすぎて、遠いひと過ぎて、その存在が浮世ばなれし過ぎてて、悲しいと言う気持ちは湧いてこない。でも、早すぎるよなあとは思う。

「マイケルまじキチガイ!ホモペドプギャーm9(^Д^)」みたいなのはキライだ。今は死んだばかりだからそういう言動は見かけないけど、マイケルに関するゴシップが流れるたびにそういう反応がわりと当然、という一定のコンセンサスがあるのはイヤだった。あの裁判だって結局すべての罪状について無罪だったのにさ…。

そんなふうに、なぜか、いつのころからか、わたしはマイケル親派だ。*1たしかに奇矯*2なひとだけど、その奇矯さを哂う気持ちにはどうしてもなれない。哂うよりも、年端も行かぬうちからショービジネスの世界で生き抜くことの業とかを想ってしまう。もちろんマドンナみたいに内も外もコントロールして強靭にサバイヴするひともいる。でも、マイケル・ジャクソンの魅力はそうではないところ、子供のような稚気、繊細さやシャイネスにこそあったとわたしは思うので、それが結果として行動の奇矯さを生んでしまうこともやむなしと、いや、せめてそんなにプギャーm9(^Д^)せんといたげて!と思ってしまう。


マイケルの踊りにはとてもクセがある。けっこう猫背気味だし、手足はダンスの基本的な動きから外れて奔放に無造作にうごく。上の映像では6:15ごろからの群舞、下の映像では4:55ごろからのひとりで踊っているパートを見ると特にそう感じる。

マイケルのダンスが唯一無二であることなんて今更すぎる話だけど、独特の「振り」を生み出したということ以上に、体の動きそのものが独特であることこそ重要だという気がする。

マイケルのダンスを見ているとドキドキする。それは、むちゃくちゃ「ゆらぐ」から。独特であるということは、美しさの基準からはみ出しているということでもある。ゆえにそれは、気持ち悪さと紙一重ですらある。「美しさ」からはみ出して「気持ち悪い」の一歩手前へと度々ゆらぐ。ゆらぎながら、同時に、美しさの「基準」の方を揺るがす。マイケルのダンスは、「気持ち悪い」の一歩手前にゆらいでも、平気で「これは美しい」という顔をする。そして実際、見ているものはそれを認めざるを得ない。「美しい」とされていることとは違う、違うのに美しい。なぜかは知らない。知らないが、認めざるを得なかったという動かぬ事実はある。重要なのは、とにかくそれを認めさせるほどの力があったということだ。基準はいずれ変容するものだが、それをたったひとりの力で揺るがしうるところに天才の凄まじさがある。

独特の「振り」があるだけでなく、動きそのものが独特であるとうことは、その「ゆらぎ」が頻繁にたち現れるということだ。ほんの数分の間に「美しさ」がゆらぎまくるPV。そんなもん、スリリングでドキドキするに決まってるだろうが。

そしてわたしは、教科書どおりであることから少しずつズレようと(おそらく、戦略的にと言うよりは無意識に)するしぐさに彼の繊細さやはにかみを見る。それでいてギョッとするほどあからさまにエロティックなうごきをしてみせ(ながら、挑発的なエロ顔ではなく照れを含んだ悪戯っぽい笑顔を浮かべ)るところに稚気を見る。「美しい」の基準を外れても平気で「美しい」の顔をしているところにも。だから…と、それを行動の奇矯さに直接結びつけて考えるのは無理筋だとはわかってはいるが、それでも、その人がその人であることの ―美しさも醜さもかしこさもバカさも、とにかくいろいろなこと全部ひっくるめた― どうしようもなさを想うと、やっぱり、せめてそんなにプギャーm9(^Д^)せんといたげて!とは思ってしまうのだ。

*1:たぶん、MJマニアのNONA REEVES西寺郷太氏の影響は強い。

*2:ネバーランドだったりバブルスだったり、つまりあまりにもコドモのまんま年だけ取ってしまったっぽいところとかが。性的嗜好なんて結局は本人にしかわからないことだし、どんなふうであっても(誰かにひどいことをしたりしたのでない限り)責められるべきことではない、ということは敢えて書いておく。