雨の日と蝙蝠傘は

今日の降水確率、50パーセント。涼子は傘を持ってこないだろうから、わたしが持って行かなくちゃ。

やっぱり涼子は傘を持ってきていなかった。「だってともえが持ってきてくれるもんねー!」と言いながら抱きついてくる涼子の背中越しにクラスメイトの男の子と目が合って、わたしはこそばゆいような気持ちといっしょに、優越感も感じていた。涼子は中学生になってからメキメキかわいくなって、学校でも 1,2を争う美少女になってしまった。だから、さっきみたいにじゃれ合っていると、ちょっと色気づいてきた男子からの羨望のまなざしが飛んでくる。それを受けとめるたびに、わたしは心の中で「涼子とこんなふうにできるのはわたしだけだ」という特権意識を密かに味わっていた。

「もー、なんで一本しか持って来ないのよ。」
「だって二本も持ってくるのめんどくさいでしょ!ってゆーか自分で持ってきなさいよね!」

校門を出たとたんに降り出した雨が、1本の傘に身を寄せ合って歩くわたしたちの腕や頬を濡らした。もうずいぶん日も長くなって、いつもならまだまだ明るい時間なのに、雨雲で覆われた空はすっかり暗くなっていた。涼子は雨が嫌いで、雨が降るとまるで別人のように無口になる。その日は特別無口で、いつも寄り道する本屋さんや駄菓子屋さんにも見向きもせず黙って歩く涼子と並んで、人気の少ない商店街を抜けていった。

住宅街に入るとほとんど誰ともすれ違わなくなって、まるで世界にわたしたちふたりしかいないみたいだった。雨の音だけがわたしたちを包んでいた。なんだか寂しくなってきたわたしはそれを紛らわせたくて、黙ってとぼとぼ歩く涼子の横顔を見ながら、なにか楽しい話をしようと思いを巡らせていた。すると、ふいに涼子が言った。「ねえ、誰かうしろからついてきてない?」雨に濡れた沈丁花の花と涼子の横顔があんまりきれいで、ぼんやりと見惚れていたわたしは、一瞬涼子が何を言ったのかわからなかった。「さっきから足音がしてるの。うしろ向いちゃダメだよ。」言われてみれば、少し後からヒタヒタと誰かの足音が追ってくるような気がする。わたしは機転を効かせて、自分のハンカチを落とした。少し歩いてから振り返ってハンカチを拾うときに、さりげなく後ろを確かめると、電柱の陰から黒い詰襟が見えた。多分高校生だ、と思った。「やっぱり、いる。」と言うと、涼子は黙ってわたしの顔を見た。その目が、まるでこの世にわたししか頼る人がいない、と言っているように頼りなげで、うちで飼ってる猫のミュウが子猫のときみたいだったので、絶対に絶対に涼子を守らなきゃ、と強く思ったわたしは、涼子の手をつかんで全速力で走り出した。

涼子の家のふたつ手前の角を曲がったところで、わたしは自分だけ立ち止まって涼子に傘を持たせ、背中を押した。つんのめるようになった涼子は立ち止まって振り返り、息を切らしながら「なんで?」という顔をした。「いいから早く!」ともう一度背中を押すと、わたしの気迫に押された涼子はそれでも一、二度振り返りながら家へ向かって走って行った。なぜだか、自分の身が危ないのかも、とは少しも思わなかった。追われているのは涼子で、涼子を無事に帰さなければ、としか考えられなかった。あとを追って来る足音を待ち構えて、わたしは住宅街の路地で仁王立ちになった。

黒い詰襟の男の子は、仁王立ちのわたしにぶつかりそうな勢いで角を曲がってきた。電柱の陰から覗いた姿はもっと大きく見えたのに、目の前の男の子はその印象よりずっと華奢だった。でも表情は大人びていて、やっぱり高校生だ、とわたしは思った。角を曲がったとたん、仁王立ちの女の子に遭遇して面食らっていた彼は、涼子の不在に気付くとすっかり打ちひしがれた様子になった。もう、わたしのことなんかまるで見えていないみたいだった。わたしの身体を透かして、涼子が走り去った路地の先をずっと見つめていた。大切ななにかを、永遠に失くしてしまったみたいな顔だった。わたしは、なんだか自分がとても酷いことをしてしまったような気持ちになって、さっきまでは何て言って怒鳴りつけてやろうか、なんて考えていた気持ちも消え失せて、言葉も出ず、うなだれた。さっきより激しくなった雨が、わたしを責めて降り注いでいるように思えた。

どれくらいそうしていただろう、雨が頬を打つ感触が消えて、ふと気がつくと、彼がわたしに傘を差し掛けてくれていた。黒くて、大きくて、でもなんとなく華奢に見える蝙蝠傘だった。なんだかこの傘、この人にそっくりだ、と思ってぼんやり見ていると、彼はうつむいたまま小さな声で「ごめん」と言って、わたしに傘を渡し、踵を返して走り出した。思わず傘を受け取ってしまったわたしは、彼の背中に向かって「あの…!」と小さく叫んだけれど、彼は振り向かずに行ってしまった。名前も知らない彼になんと声を掛けて良いかわからなかったので、仕方なくわたしはそのまま彼の傘を差して家に帰った。わたし、彼から、何もかも取り上げてしまったなあ、などと思いながら、でも、なぜか少し嬉しいような気分で沈丁花の香りの中を歩いた。

そのときのことは、涼子にも誰にも言ってなくて、傘は今でも、クローゼットの奥の方にしまってある。

あのときの傘、今度、返しに行っても良いですか?